「天は赤い河のほとり」パロディ小説・読み物

しゅんしゅんの天河トリビア




天河を読破し、何か面白い話は、と向かったのは図書館。
膨大なエジプト史とヒッタイト史のごく一部に、コミックの登場人物の名が記されていました。
「へぇ!、本当の歴史はこうだったんだ」と感動したり、本当の歴史に大胆な脚色を加えてあれだけのコミックを書き上げた篠原先生に感心したり。

その「へぇ」っと感動した一部をここにお裾分けします。
なお、文献や研究者によって解釈が異なる点もあるのでここに書いたものが全て正しいとは限りません
一部は、しゅんしゅんが「総合判断」したところもあります。
読み方はコミックに準じて揃えました。(ラメセス→ラムセス、ムルシリシュ→ムルシリ)




ムルシリ2世の正妃
ムルシリ2世は正妃を一人しか持たなかったが、その妃はムルシリ2世の亡くなる1年前どころかかなり早い時期に亡くなったようで、「呪い殺された」と嘆き悲しむムルシリ2世の様子が記録されています。



ムワタリ1世
ムルシリ2世の長男、ムワタリ1世(デイル・ムワタリ)は、戦争の腕は良かった(※)のですが、王宮内のごたごたに対してはあまり評価の高い皇帝ではなく、息子と弟の間の内戦を招き、結局息子に皇位を継がせることが出来ませんでした。
(※)カディシュの戦いで、ラムセス二世率いるエジプトと対等に渡り合っている。


その様子は「カッパドキア奇憚」に示唆されています。つまり、デイルが言うところの「代官に出頭命令を出す」だけでは代官たちは容易に証拠隠滅が可能で、 真相解明が出来なかったかも、と思われます。ユーリが行った「不意打ち調査」は良かったのですが、タワナアンナが出てくるのは行き過ぎかな。



ムルシリ3世(ウルヒ・テシュプ)
叔父のハットゥシリ3世に敗れたムルシリ3世は、エジプトに亡命しました。
ハットゥシリ3世は早速送還をエジプトに求めましたが、エジプト側はこれを拒否。ハットゥシリ3世はカンカンに怒りましたが、戦争を避けるべきという考えから、隠忍自重したそうです。




アルザワ無血開城?
ムルシリ二世がアルザワに降伏するように書状を送り、アルザワの国内は降伏派と抵抗派に割れ、結局降伏して藩属国になりました。
ムルシリ二世は、抵抗を主張した指導者と平民捕虜6万6千人をハットゥサに連れ帰ったそうです。これ以外にも、臣下が勝手に連れ帰った捕虜もいたようですが・・・・・




脇役の死因
シュッピルリウマ帝の死因は病死だが、病原菌は捕虜として連行したエジプト人が持ち込んだもの
アルヌワンダ1世は殺害されたのではなく、病死。(父親と同じ病気)
ザナンザ皇子はエジプトの将軍ホレムヘブ(つまり、アイの次のファラオ)に殺害された、
というのが通説のようです。(アイが殺害を指示したという説も)
まあ、篠原先生の脚色の方が面白く話が進むので、いいけど。
(アイ=ヒッタイト皇帝に手紙を出したアンケセメーネ妃の2人目の夫)




ラムセス1世の在位と皇帝たちの年齢
エジプト第19王朝の初代ファラオ、ラムセス1世。
原作では「この男・・・後にラムセス1世となる」と格好良く終わっていますが、実際にファラオとして在位したのは紀元前1293~1291年の2年間だけ。ルサファの言うとおり「王になる頃はオジン」だったのです
ムルシリ2世が在位したのが前1345~1315年なので、ムルシリ2世が即位してから実に64年後に即位???。ええっ??

前1345  ムルシリ2世即位(22歳)
前1315  ムルシリ2世崩御(52歳)
前1315  ムワタリ1世即位(28歳)
前1293  ラムセス1世即位(86歳)
前1291  ラムセス1世崩御(88歳)
前1282  ムワタリ1世崩御(61歳)


コミック原作より、年齢はムルシリ2世が即位した前1345年時点で、ムルシリ2世とラムセスが22歳。ムワタリ1世(デイル・ムワタリ)はムルシリ2世が25歳の時の子、と推定しました

なお、ヒッタイト皇帝の在位年については諸説あるようですし、私が参照した文献もヒッタイトの部分とエジプトの部分では違うものを使用しているため、実際にはこのような年齢の齟齬(そご)はなかったと思います。
正確な情報をお持ちの方、よろしくお願いします。


ラムセス1世は、前ファラオのホレムヘブとは血縁関係はありませんが、信頼できる臣下だったためスムーズに王位を譲り受けたといわれています。
(それだけラムセスが優秀な臣下だったわけです。ホレムヘブとラムセスが信頼関係にあった描写は 21巻でも描かれています)
ラムセス1世の息子がセティ1世(在位 前1291~1278)、セティ一世の息子が在位66年を誇るラムセス2世(在位 前1278~1212)です。




ピラミッド
20巻でユーリがピラミッド見物に行っていますが、(クフ王の)ピラミッドが建設されたのは紀元前26世紀。ユーリがエジプトにいたのは紀元前14世紀なので、当時ですら12世紀前の遺跡と言うことになります。

ピラミッドは王家の墓ではない、という説(※)もあり、「天は赤い河のほとり」でも、篠原先生は「ピラミッドはファラオのお墓」とは一言も書いていません。
(※ 巨大な祭祀用施設を作る名目で公共事業が主目的だったという説、他)




労働と税金
エジプトの農民の税金は収穫予想量の半分とされています。豊かな土地ですので、豊作時はいいのかも知れませんが、不作の時は大変ですね。
ナイル川が氾濫する時期、農民たちは公共事業に駆り出されます。
初期の頃(第3~6王朝)はピラミッド建設に携わっていたようで「クフ王万歳」「腹いっぱいパンを食べよう」という落書きもあり、強制労働ではないことが分かります。
しかし、ピラミッドは500年間しか作られませんでした。
一方、「天河」の舞台になった新王国時代になると、ピラミッドはすっかり作らなくなった代わり、公共事業は畑や道路といった実用性の高いものにかわりました。
実用性が高いと言うことは、貴族や神官、役人の利権が絡んでくるわけで、ピラミッドのような非実用的なものと比べて「効率」が要求されます。
タハルカが反乱を起こしたときのように「少ない食事で重労働」ということもあったのかもしれません。




タハルカ
「天河」の舞台となったエジプト第18王朝では平民として使われていますが、同じ名前のファラオが第25王朝にいました。
在位は前690年~664年と比較的長めです。
タハルカ王はテーベの南方ヌビアの民で、第25王朝では、ヌビア人の5人のファラオが1世紀にわたってエジプトを治めました。
タハルカ王の功績は大量の建築物を造ったことで知られています。(統治力が強力でないと大量の建造物は作れない)


月のさわり
男性が運営するサイトにこんなこと、と思われるかもしれませんが、おつきあい下さい。
人類史上、いわゆるアンネナプキンの恩恵にあずかっているのは、ホンの一握りの人たち。昔の人はどうしていたのでしょうか。
近代の人は、脱脂綿を当てたりしていたようです。(日本で戦時中、モノが不足していたときは「脱脂綿が手に入らず、木綿のボロ布を何回も洗って使った」という記録があります。)
天河当時のエジプトでは綿はまだ知られていませんでした。布は亜麻布が使用されていました。これを「後ろ帯」という形のタオルにし、褌状の「生理帯」というものに畳んで当てて使用していたのでしょう。
、使用後は洗濯に出していました。
貴族の場合、洗濯物は洗濯夫に出すのが普通でした。
おそらく、ヒッタイトでも似たような状況だったと思われます。



食事事情
パロ18話で、商人の家で大量の料理が出る描写がありましたが、実際はどうでしょうか。
当時の他の国家に比べれば、食べ物には恵まれたと言われています。
ナイル川による肥沃な土壌、河の恵み、国家による食物の管理。
さらに、生産地と都市が隣接していたため、新鮮な食物が手に入りやすかったということもあります。
当時のローマでは、腐りかけた食べ物や限られた種類の食べ物をどのようにごまかして 変化をつけて食べるか、ということで香料や調理法が発達したようですが、エジプトでは簡素な調理法で充分だったとも言えます。

また、食べ物を新鮮なうちに食べる、ということで、パーティには大勢の人が招かれます。大量の食材を食べきってしまうためです。中には、裸になったり、食べ過ぎて戻す女性もいたとか。

さらに、食糧事情が良すぎたため、ミイラの中には糖尿や痛風のあとが見られるものも少なくないとか。



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参考図書 
「ヒッタイト帝国~消えた古代民族の謎」ヨハネス・レーマン著 内野隆司、戸叶勝也訳 佑学社
 「ライフ 人類の歴史100万年『ヒッタイト帝国』」ジム・ヒックス著 タイム・ライフ・ブックス編
「古代エジプト ファラオ歴代史」ピータークレイトン著 吉村作治監修 創元社
「古代エジプト千一夜」 吉村作治著 近代文芸社
「痛快!ピラミッド学」吉村作治著 集英社インターナショナル
「ミイラの謎」フランソワ・デュナン、ロジェ・リシタンベール著 吉村作治監修  創元社(知の再発見双書42)


この中で「ミイラの謎」は実際のミイラの写真が多数掲載されており、見応えがあったが、傷んだご遺体を見るのが苦手な方は覚悟がいるかも。


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